川崎町支倉
支倉常長は、伊達政宗の命を受け慶長18年9月(1613年10月)月ノ浦を出帆しイスパニヤからローマへ渡りローマ法王に謁見を果たし帰国したが 時既に徳川幕府は鎖国、キリシタン弾圧政策が取られており帰国から2年後失意の中死んだとされています。
土地の人に聞くと通り過ぎていたようである・・・また来いと言う事か...。
河っち
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日本のいたるところに帰化人の里がありますネ。牟礼とか新羅とか。
秦氏も帰化人のようですし、日本の成り立ちに帰化人の協力は不可欠だったようです。迫害もされてますが・・・。
kan*a_*4*
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河っち」さん おばんです
日本の殆どが渡来人の子孫で形成されていますので、帰化人の集まりのようなものです。
因みに日本に一番多くあるという稲荷神社は秦公伊呂具が起源とされています。
私の顔も どう見ても縄文系とは違うので渡来人の血が混じっているものと思われますが...?
サトシ
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新羅、世界史で勉強しましたよ。懐かしいです。
東北の地にもこういう史跡があるなんて、ビックリです。
はるか昔のこの地はどういう感じだったのでしょうね。
M.ROSSO
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川崎町支倉は新羅の郷だったのですか・・・勉強になりました。
知らないことばかりです!!
kan*a_*4*
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「サトシ」さん おばんです
東北の地は前九年の役や文治の役など何度か源氏の攻撃を受けています。新羅三郎は源氏の一派に属していましたのでこう言う逸話が残っているのでしょうね。
「はるか昔のこの地はどういう感じだったのでしょうね」・・・私もそれを想像したくて自転車散歩して歩いています。なにせ蝦夷の地ですので...。
kan*a_*4*
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「M.ROSSO」さん おばんです
ねぇ知らなかったでしょ・・・何度も此処を通っているのに私も最近知ったので雹見深く見てみたくて行ってきました。
柴田町槻木入間田にも新羅人が入ったと言う事ですが、たまたまかも知れませんが埼玉県入間市も古代新羅人入植の地と聞きますし...興味は尽きませんねぇ。