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川崎町支倉

川崎町支倉


此処には 宮城県に三箇所あるという「支倉常長」の墓の内の一つがある事で知られているところです。
支倉常長は、伊達政宗の命を受け慶長18年9月(1613年10月)月ノ浦を出帆しイスパニヤからローマへ渡りローマ法王に謁見を果たし帰国したが 時既に徳川幕府は鎖国、キリシタン弾圧政策が取られており帰国から2年後失意の中死んだとされています。


しかし、見てみたかったのは支倉常長の墓ではなく(一応見学しましたが)






「新羅の郷」











説明板には


 現在支倉の字名がついているが、古くは長谷倉とか馳倉(はせくら)と呼んだ。それ以前は新羅であったという。永承六年(1051)安倍頼時が平泉によって反乱を起こして勢力を張ったので、朝廷は源頼義、義家父子に征討を命じた。前九年の役である。その折、源氏の武将新羅三郎義光が新羅(朝鮮)の帰化人三十七人を率いてきた。二十人は槻木の入間田に、十七人をこの地に住まわせた。支倉に住んだ新羅人は優れた技術を持っていたので、砂鉄を精錬して武器と農具を作って戦役の用に供した。それ以来新羅の郷と呼ぶようになった。それを証明するように、ここ沼の橇(そり)をはじめ、この森一帯に金屑が見られ、何時の頃からかこの森の奥に供養碑も建てられている。遠く故郷を望んで没した新羅の人々の冥福を祈ってやまない。


槻木の入間田とは 折石神社の辺りです


新羅供養碑を探しに上って行ったが見つけられずに帰ってきた
土地の人に聞くと通り過ぎていたようである・・・また来いと言う事か...。




そして此処にはこんな所もありました







山の中腹 畑の中に道もない赤い鳥居

鳥居の中は・・・。

信仰の原点でしょうか...?
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6Comments

河っち  

No title

日本のいたるところに帰化人の里がありますネ。牟礼とか新羅とか。
秦氏も帰化人のようですし、日本の成り立ちに帰化人の協力は不可欠だったようです。迫害もされてますが・・・。

2009/07/24 (Fri) 22:06 | EDIT | REPLY |   

kan*a_*4*  

No title

河っち」さん おばんです
日本の殆どが渡来人の子孫で形成されていますので、帰化人の集まりのようなものです。
因みに日本に一番多くあるという稲荷神社は秦公伊呂具が起源とされています。
私の顔も どう見ても縄文系とは違うので渡来人の血が混じっているものと思われますが...?

2009/07/24 (Fri) 22:27 | EDIT | REPLY |   

サトシ  

No title

新羅、世界史で勉強しましたよ。懐かしいです。
東北の地にもこういう史跡があるなんて、ビックリです。
はるか昔のこの地はどういう感じだったのでしょうね。

2009/07/25 (Sat) 18:18 | EDIT | REPLY |   

M.ROSSO  

No title

川崎町支倉は新羅の郷だったのですか・・・勉強になりました。
知らないことばかりです!!

2009/07/27 (Mon) 16:01 | EDIT | REPLY |   

kan*a_*4*  

No title

「サトシ」さん おばんです
東北の地は前九年の役や文治の役など何度か源氏の攻撃を受けています。新羅三郎は源氏の一派に属していましたのでこう言う逸話が残っているのでしょうね。
「はるか昔のこの地はどういう感じだったのでしょうね」・・・私もそれを想像したくて自転車散歩して歩いています。なにせ蝦夷の地ですので...。

2009/07/27 (Mon) 20:31 | EDIT | REPLY |   

kan*a_*4*  

No title

「M.ROSSO」さん おばんです
ねぇ知らなかったでしょ・・・何度も此処を通っているのに私も最近知ったので雹見深く見てみたくて行ってきました。
柴田町槻木入間田にも新羅人が入ったと言う事ですが、たまたまかも知れませんが埼玉県入間市も古代新羅人入植の地と聞きますし...興味は尽きませんねぇ。

2009/07/27 (Mon) 20:38 | EDIT | REPLY |   

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